-そこに救いなどない
あるのは血のような赤い雨・・・

 

「そうですか。私の提案を受け入れてくださらないと・・・?」
男は目の前の、重厚な作りの椅子に座っている女を見つめていた。彼女の後ろにある窓から夕陽が差し込み、金色の光がシルエットを縁取っている。
彼女は微動だにせず、沈黙を守っていた。
「残念です。あなたは・・・この国を救う気がないと見える」
男はゆっくりと腰の鞘から剣を抜いた。

 

 

ランツハイム暦 1149年1月
大陸の北部に位置するランツハイム王国の首都『ベルフォート』。
ここランツハイム大陸は、地域による特徴や四季が存在するものの、豊穣な自然の恵みにより、真冬の寒さが厳しい季節であっても、幾らでも作物が実る肥沃な大地であった。
よってランツハイムの人々は飢えることを知らず、ただ平和な世がもたらす繁栄を享受していた。

王都、季節は冬。
一晩中降り続いた雪で、翌朝には銀世界が広がっていた。
王城の庭園も真っ白な雪に覆われ、太陽の光が反射して眩しさに目が開けられないほどであった。

ランツハイム王国を統治するベルリネット王家の第一王位継承者『ルゼフィルダ』王女は、その日も退屈を持て余していた。
「あ~あ、何か面白いことってないのかな・・・」
『ゼフィ』と呼ばれるこの愛くるしい少女は、窓に鼻をくっつけて雪景色が広がる王城の庭園をぼんやりと眺めていた。

本当は街に出て遊びたかったが、数日前に許可なく城を抜け出したことが見つかり、母である女王『イブリン』にたっぷり叱られたばかりだった。
おかげで今日は護衛の『ルウ』がぴったりとマークしていた。
ルウはゼフィが絶対に城の外へ出ないよう、見張り役を強く命じられたのだ。
そんなルウの様子を見て、ゼフィは不満をこぼした。
「・・・そんなに見張ってなくても大丈夫よ。今日はどこへも行かないわ」
「申し訳ございません、ルゼフィルダ様。女王陛下の命令ですので」

冷静な口調で言葉を返すルウは、幼い頃からゼフィの護衛役として教育を受けているため感情を表に出すことがなかった。
甘やかされて育ったゼフィよりもルウの方がはるかに大人で落ち着いていた。

ゼフィは大きなため息をついた。
結局、今日もいつもと変わらない退屈な一日になるだろう。
その上、今日は家庭教師が来る日でもあり、うんざりするほど長い授業を聞かなければならない。
「はぁ・・・王女なんて本当につまんないわ」
自分を見張るルウに向けてわざと聞こえるように不平を言っても、やはり反応はなかった。

「今日も、とても退屈そうですね。ルゼフィルダ王女」
突然、背後から聞こえた力強い声に、ゼフィは振り返った。
濃い茶色の髪に顎鬚をたくわえた男が、彼女たちに向かって歩いてくる。
凛々しく精悍な風貌の彼は、37歳の若さでランツハイムの宰相となった『シュエンザイト・バーレン』だった。

彼を見てゼフィの表情がパッと明るくなった。
「バーレン! 王城に来る日だったのね?」
「はい。女王陛下への謁見がありまして」
彼は穏やかに答える。
「後で、また外の世界の話をしてくれる?」
「そうですね。今日はランツハイムよりさらに北の、アビスベルクについてお話しましょう」
「嬉しい! 楽しみだわ」

さっきまで退屈を持て余していたゼフィの様子を知るルウは、嬉々とする彼女を見て密かにため息をついた。

宰相シュエンザイトと女王イブリンは親交が深い。
よってゼフィも彼と家族同然の関係であり、早くに父を亡くしたゼフィは、特に彼になついていた。

嬉しそうにシュエンザイトに抱きつく小さな王女に、彼は優しく微笑みながら囁いた。
「今日はこの国の命運を分ける、非常に重要な日になりますよ・・・」
彼の言葉が聞き取れず、とっさにゼフィは聞き返した。
「え? 何て言ったの?」
口元には柔和な笑みを浮かべているが、どこか暗い光を湛えた彼の瞳。
初めて目にする彼の様子に、ゼフィも徐々に不安になった。
「バーレン・・・ どうしたの?」
「そうですね・・・ もうじき、分かります」
なぜかそれ以上は聞いてはならないような気がして、ゼフィは彼から離れた。
「う、うん・・・じゃあ、待ってるから・・・後でね」
ルウはそんなゼフィの様子を怪訝な表情で見ていた。

冬の日没は早い。北の大地ではなおさらー
ようやく家庭教師の眠気を誘う退屈な授業から解放されたゼフィは、バーレンが来るのを待ちきれず、ルウを伴って部屋を出た。
「まだお母様と話し込んでいるのかな。今日はずいぶん長話ね」

ゼフィは、母と宰相がいるであろう部屋の前までやってきた。
そこは執政室・・・ 女王が国を動かす場所であった。
扉を開けようと手をかけた時、中から声が聞こえた。

「残念です。あなたは・・・この国を救う気がないと見える」

ぞっとするような、冷たい声であった。
ゼフィは胸騒ぎがしたが、そのまま扉を押す手に力をこめた。
開かれていく扉の隙間から見える光景は、信じられないものだった。

真正面から差し込む夕陽で逆光となり、振り上げた剣先が嫌にくっきり見えていた。
そして剣が、ためらいもなく振り下ろされる。
左の肩口から右の脇にかけて深く、深く。
その動きが意外と緩慢に見えて、ゼフィは最初、目の前の光景が演技かと思ったほどである。

背中を向けていた人物がゆっくりと振り返る。
「ああ・・・ これはルゼフィルダ王女・・・」

彼の背後で崩れ落ちたその人は、ランツハイムを治める女王『イブリン』であった。
母の象牙色のドレスが徐々に赤く染まっていき、床を飾る華やかな模様の絨毯も、どす黒く濡れていく。
その様子を見て、ゼフィはやっと言葉を搾り出した。
「え・・・ なに・・・」

「お母・・・ 様・・・ ?」
「ルゼフィルダ様、見てはいけません!」
部屋の中の惨状を見たルウがゼフィの前に飛び出したが、彼女の身長ではゼフィの視界を完全に遮ることはできなかった。

「お母様!」
眼前の光景が信じられず、ルウを押しのけ、ゼフィは震える手を握り締めながら何とかイブリンの元へと進んだ。
シュエンザイトは何も言わず、無表情でゼフィの様子を見守っている。
ゼフィは女王の前でしゃがみ、眠っているかのように見える女王の顔に触れた。

「お母様、お母様ぁ・・・」
母の体から流れる血と共に、命も消えていく。ゼフィは、女王に抱きついて命の温もりを確かめようとした。

冷たくなっていく母の遺体を抱いて放心したゼフィは、たった今母を手にかけた人物に泣き混じりの声で問う。
「・・・ど、う・・・して、どうして・・・バーレン」
うまく言葉が出てこない。

彼は、答えの代わりにぞっとするほど凄惨な微笑を浮かべていた。
その手に握られた剣からは、まだ血が滴り落ちていた。

ゼフィの意識は、そのまま闇の中に沈んだ。

 

 

-赤だ。
赤い雨が、降っている。
ゼフィはそう思った。

-違う、これは… 剣先から滴り落ちる血。
これは、お母様の血―

女王イブリンの崩御後、数日が過ぎた。
女王が暗殺された日から、ゼフィはルウと共に王城の一室に幽閉されていた。
目の前で母親を殺された衝撃で気を失ったゼフィは、その間高熱にうなされていた。護衛のルウも、ゼフィが意識を取り戻すまでそばで一睡もせずに看護していたため、激しく体力を消耗していた。

ルウは、当初シュエンザイトの女王暗殺事件は王位簒奪が目的だと推測していた。だから彼が女王を手にかけた後、すぐに第一王位継承者であるゼフィをも殺すと思い、体を張ってゼフィを守ろうとその場で死を覚悟したのだった。

だがシュエンザイトは、ゼフィを殺さなかった。
冷静になって振り返ってみれば、その日、執政室の前で聞いた言葉も謎だった。
『残念です。あなたは・・・この国を救う気がないと見える』

どういうことだろう。宰相の本当の目的は何だろうか。
だがいくら考えても、その問いに対する答えがルウには見えてこなかった。
外はあの日のような黄昏で、地平線が真っ赤に染まっていた。

「ル・・・ウ・・・・・・」
夜中、うたた寝をしていたルウは、か細い声で目が覚めた。
「ルゼフィルダ様、気が付かれたのですか? 私はここです」
暗い部屋の中、急いで蝋燭に炎を点すと、うっすらと目を開けたゼフィが見える。ルウはゼフィの口元に水が入ったコップを当てて、少しずつ飲ませた。
「ルウ・・・ お母様が・・・」
「今は体を治すことを最優先に考えましょう」
ゼフィの言葉を遮り、黙々とゼフィの汗を拭くルウを見て、ゼフィは嗚咽を漏らし始めた。
「本当なのね、夢じゃ、ないのね、うっう・・・」

母が目の前で殺されたー
あの赤い雨は、現実だったのだ。

ゼフィはその後、何とかベッドから起きられるくらい体力は回復したが、精神状態はまだ回復しなかった。
明らかに口数が減ったゼフィは、虚ろな表情でずっとベッドに座り、窓の外を見つめていた。
彼女は幸せだった過去を、ひたすら繰り返し思い描いていた。現実から背を向けていては何も変わらないが、まだ癒えない心の傷は必死に過去にしがみついていた。
どうしてこうなってしまったのだろう・・・
ゼフィもまた、ルウと同じく答えのない問いについて考えていた。

陽が沈み、夜が更ける。また一日が過ぎようとしていた。
「ルウ」
今日、まだ一言も口を利いていなかったゼフィが久しぶりに口を開いた。
「はい、ルゼフィルダ様」
「私が今まで・・・見てきたものは何だったの? バ・・・シュエンザイトは私をダマしていたの?」
ゼフィは心の中で繰り返していた問いをルウに投げかけた。
「・・・ルゼフィルダ様。もうお休みください」
ルウはゼフィの問いには答えず、代わりに横になっていたゼフィに毛布をかけてやった。
ゼフィの問いに答えたくとも、ルウ自身も答えを持っていなかった。

おそらくこの城内にいる皆は誰も、彼がまさか反逆を起こすなど想像もできなかっただろう。
親切で思慮深い宰相シュエンザイトは人々に好感を与える性格で、宰相になってからもその気さくな人柄は変わらず、女王イブリンから厚い信頼を受けていた。しかし今回の事件で、人々は彼がこれまで如何に狡猾な演技を見せてきたのかを思い知らされた。
民は幽閉された小さな王女に同情したが、王国軍を手中に収めたシュエンザイトの前では口を開くこともできなかった。
幽閉されて外の様子を知ることのできないゼフィたちには、そんなことは知る由もなかった。

ゼフィは、これから起こる戦禍の嵐を、そしてその渦中に自分が置かれることになろうとは、思いもしなかった。

 

つづく