ルウとゼフィがアバジェットに来てから暫くは一見平和な日々が続き、季節は春から夏に移ろうとしていた。
アバジェットはどこも明るく、活気に満ち溢れ、皆生き生きとしていた。
南部連合の兵士たちも、王女の合流によりさらに士気が高まったようで、一層修練に励んだ。
街の中にいると、ゼフィはつらい過去の記憶が少しずつ薄れていくのを感じた。

アレックスには、ゼフィがアバジェットに来た日に話した申し出の答えを催促する気はないらしく、そのことについて触れることはなかった。
ゼフィは選択の岐路に立たされたことを自覚しながらも、答えを出せずにいた。

初夏の涼しい風が吹く夕暮れ。
その日ゼフィは、ルウとアルゴとともにアバジェット草原にいた。
アルゴは幽閉されていたゼフィたちの脱出を手助けした巨漢のトレワ族で、南部連合の傭兵だったため、アバジェットに来てしばらくしてから再会することができた。

「来たれ、風の刃!!」
ゼフィは自分の体よりも長い柄の先に大きな羽根がついた扇を一振りしながら叫んだ。
扇が青白い光を発すると、そこから半円形に光る風の刃が生まれ、草原を駆け抜けた。風の通り道に、粉々にされた草がはらはら舞い落ちた。
「やったわ! 見た? ルウ、アルゴ、ちゃんと刃の形になってたでしょ!?」
「腕を上げましたね。ルゼフィルダ様」
「うむ、そうだな。あれなら、実戦でも通用するだろう」

ゼフィは、アバジェットに来てしばらくしてから錬換術の特訓を始めた。
『錬換術』とは、この世界を構成する『火』『水』『風』『雷』の4大属性の環境の力を、様々な形の術に変えて行使することだ。
錬換術を駆使できるものは『錬換術師』と呼ばれ、日常の様々な場面で重宝された。ゼフィも子供の頃から風の錬換術に適正があったため、基本的な指導は受けていた。

ゼフィは悶々とした毎日が過ぎていく中で、少しでも自分を鍛えるために、南部連合に所属するアルゴに戦闘術を習い、ルウに錬換術の指導を受けることにした。
『私にはシュエンザイトやアレックスのような力はない。でも、自らの身を守るだけの力・・・その力は、自分次第で何とかできるかもしれない』
ゼフィは、不測の事態に備えようと必死だった。

「ゼフィ、ひと雨来そうだ。今日はこのくらいにしよう」
アルゴは空を見上げ、錬換術に没頭しているゼフィに声をかけた。
空はいつの間にか、今にも降り出しそうな雨雲で覆われていた。
「もう戻りましょう、ルゼフィルダ様」
「そうね」
ゼフィは物足りなかったが、諦めて戻ることにした。しかし、ゼフィとルウが街の方に向かって歩き始めたとき、草原の向こうを見ていたアルゴがいぶかしげに眉をひそめた。

「誰か来る」

ゼフィはその声に振り返った。
ルウはすぐさま警戒の態勢をとったが、遠くから歩いてくるのは一人の男だった。よく見るとその男は体中から血を流し、よろめきながら歩いてくる。ゼフィはそのひどい姿を見て、すぐにその男のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「う・・・」
 男はゼフィの目の前で倒れた。
「何があったのです?」
 ルウが訊ねると、男はかすれた声で苦しそうに答えた。

「モ、モンスターが・・・」
「モンスター? どこにモンスターが現れた?」
アルゴはモンスターという言葉に強く反応した。男は荒い呼吸を繰り返し、答えた。
「老狐峡谷・・・集落が・・・襲われ・・・助けて・・・頼む・・・」

『老狐峡谷』
そこはアバジェットの東に位置し、険しい地形のため人が住めるような土地ではなかったが、峡谷に生息するモンスターを狩り、その体内に宿る宝石を手に入れたり、峡谷に自生する珍しい薬草を採集する人々の集落がいくつかあった。

ゼフィはすぐに、傷を治療する錬換術を発動した。彼女の手に現れた青い光が男の体を包むと、徐々に傷が癒されていく。
しかしあまりにも傷は深く、出血は止まらなかった。ゼフィの能力では男の傷を治療するには限界があった。

「峡谷には、それほど危険なモンスターはいないはず。集落を襲ったのはどんなモンスターだった?」
アルゴが聞いても、男は既に焦点が合っておらず、もはや言葉を発することはできない状態だった。彼はよく聞き取れない言葉を繰り返し、そのまま息絶えた。
目を開けたまま死んだ男を、ゼフィは呆然と見つめた。

赤い血。赤い雨・・・
胸の奥にしまっておいた母の死を思い出した。

「ゼフィ、気にするな。これだけの深い傷だ。どんなに優秀な術師でも助けることはできなかっただろう」
ゼフィは何も言わなかった。そして死んだ男を見つめ、男が歩いてきた方へ目を向けた。

「アルゴ、今すぐ老狐峡谷に案内してくれる?」
「ルゼフィルダ様、危険です」
ルウは止めたが、ゼフィは強く首を横に振った。

「この人は危機を知らせるために、命を懸けてここまで来たのよ。それだけ危険なモンスターがいるとしたら、峡谷に近いアバジェットも安全とは言えないわ」
「落ち着け、ゼフィ。どんなモンスターがいるのか分からない以上、我々だけで行くのは危険だ」
「でも」
「総司令部に報告し、兵士の派遣を要請しよう。彼らが到着し次第出発する」

アルゴが急遽、南部連合に所属している頑強なトレワ族の戦士を呼び、10名ほどで老狐峡谷に向かって出発することになった。

程なく峡谷の集落に到着した一行は、あちこちで血を流して倒れている人々と、崩れ落ちた家々を見た。ゼフィは硬直した表情で辺りを見回した。
「どうしてこんなことに・・・」
やるせない表情で集落を見回す。
「ひどいな。まだこの辺にいるかもしれない。気をつけろ」
アルゴを始めとするトレワたちは武器を構え、いつどこからモンスターが飛び出してきても良いように臨戦態勢を崩さなかった。
ルウは鋭い視線で周辺を注意深く見回した。集落の中に人の気配は全くなかった。
鳥肌が立つほどの異様な静けさが漂う。

目を背けたくなるほど凄惨な光景を目の当たりにすると、 記憶の底に沈めていた母の死の光景がフラッシュバックする。
ゼフィは固く目をつぶり、赤い雨の記憶を必死に追い払った。

まだ生存者がいるのではないかと、集落の隅々まで探し回ったが、あるのは既に冷たくなった亡骸だけだった。
ゼフィとルウは歩き回っているうちに、いつの間にか集落のはずれまで来ていた。

そしてゼフィがつらい表情でため息をついた瞬間、耳元を何かの音がかすめた。

「ルルル・・・」

・・・鳴き声? 唸り?
ゼフィはびくっとして足を止めた。

「ルゼフィルダ様、私から離れないでください」
ルウが武器を構える。
ゼフィは周囲をきょろきょろ見回したが、亡骸と廃墟の他には何もなかった。

「クルルル・・・」
二度目のそれは、はっきりと唸り声だと聞き取れた。
ハッとして上を向く。
音は頭上から聞こえていた。そこには、動物とも昆虫とも見てとれる、奇怪な姿をした巨大な生物がかがんで、二人のほうを向いていた。
実際のところ、目と思しき器官が見あたらなかったので、こっちをを見ていたかどうか定かではなかったが。
こんなにも巨大で異様な形の生物は、今まで一度も見たことがなかった。
ゼフィはとっさに錬換術を使おうとしたが、身体が凍りついて思い通りに動けない。ルウはゼフィを庇うように前に出て叫んだ。
「何者ですか!?」

そのとき、クッ、クッという女の笑い声が聞こえた。
「あらあら、その方を殺してはダメよ」

巨大な生物に気取られて気づかなかったが、その陰に女が立っていた。
長い黒髪をなびかせて、女は生物の前に出てきた。10代後半に見える、魅力的な美貌を持つその女は、奇怪な生物の体を軽くなでた。
そして、動けずにいるゼフィの視界に、もう一人の人物が入ってきた。
女の隣に無言で立つ男は、黒と赤に彩られた独特の服を纏い、仮面をかぶっていた。

「あなたたちは・・・?」
「初めまして、ルゼフィルダ王女様。私はクレア・セティランと申します」
「まさか、集落を襲ったのはあなたたちなの?」
「ふふふ、まさかこんなところでお目にかかれるとは・・・ 今後お見知り置きを」

「ルゼ・・・フィルダ・・・?」
無言だった仮面の男は『ルゼフィルダ』という名前に反応した。

「そうよ、エルガー。あのお方が王女よ。実際にお会いするのは初めてよね?」
エルガーと呼ばれた男は、ゼフィを見ているようだったが、仮面のせいでその表情までは分からなかった。

「あなたたちは・・・誰?」
ゼフィは手に握っていた扇を掲げ、構えをとった。
「そんなに警戒することはありませんわ。今日の我々の目的は達成されました。あの方の命令もなくあなたと戦っては、私もエルガーもお叱りを受けるでしょう」
「あの方?」
「ええ、あの方・・・シュエンザイト様のこと」
「あなた、シュエンザイトの部下なの?」
ゼフィは久しぶりに耳にするその名に、血が逆流する思いがした。

「今日は王女と戦うつもりはありませんわ」
「なぜ、なぜなの? どうして罪のない人々を殺すの!?」
両目を大きく見開いて叫ぶゼフィを見て、クレアは妖艶に微笑んだ。
「今日は簡単な実験をするために来ただけです。南部連合に警告するついでに。用は済んだので、これで失礼しますわ」
クレアは慇懃に頭を下げ、不敵な笑みを浮かべて踵を返した。

「待ちなさい!」
ゼフィが放った風の気が扇からほとばしり、まっすぐにクレアの背中を狙った。しかしその瞬間、エルガーが前に出た。エルガーは剣を抜き、簡単に風の波動を防いだ。刃と風がぶつかる鋭い音が辺りに響いた。

「そのくらいにしておけ」
男は感情のない声で言った。ゼフィは本能的に、自分はこの男には敵わないと悟った。
巨大な生物と共に悠々と引き上げるクレアとエルガー。ゼフィは興奮に肩を震わせて見ていることしかできなかった。
『敵わない。全く相手にされなかった・・・』

「ルゼフィルダ様・・・」
ルウは、複雑な心境だった。
敵の前で何の行動も取れなかった自分。
ゼフィが錬換術を放とうとした時に止めるべきだったのだ。もし、ゼフィの攻撃に挑発されてエルガーという者が攻撃してきたらと思うと、ぞっとする。自分は、ゼフィを守りきれなかっただろう・・・

背中を向けたまま、微動だにしないゼフィ。ルウは心配になり、彼女の顔をのぞきこんだ。
だが、意外に彼女の表情はしっかりしていた。

「大丈夫よ・・・」
ゼフィはさっきの奇妙な連中との出会いを思い返した。
クレアという女と、エルガーと呼ばれていた不気味な男、そして巨大な生物。
彼らと対峙した瞬間、ゼフィは恐怖で凍りついて身動きできなかった。その瞬間のことを思うと、ぞっとした。
『もし彼らが本気で私に向かってきたら、今頃私とルウは生きていなかった・・・今のままでは、私は自分の身を守ることすらできないわ』

日が沈んだ峡谷は闇に染まりつつあった。
谷間では、底の見えない淵が口を開けていた。

雨粒がひとつ落ちる。
ゼフィは分厚い雲に覆われた空を見上げた。
「ルウ」
「はい、ルゼフィルダ様」
もう一粒、落ちてきた雨粒がゼフィの頬をかすめる。
ゼフィは両目を静かに閉じ、そして開いた。
「私・・・アレックスと手を組むわ。力を借りるためならどんな条件も呑む」

その瞬間、激しい雨が降り始めた。
ゼフィは無言で、廃墟と化した集落を眺めた。
この集落のすべての人々が、一人残らず命を奪われた。

「シュエンザイトの・・・仕業なのね。シュエンザイトは、わざとアバジェットに近い老狐峡谷でこんなひどいことをしたんだわ」
「ええ、クレアという女は、南部連合に警告するために来たと・・・」

ルウはゼフィの表情から心の奥底に秘められた苦悩を見た。

「悔しい・・・彼らを前にして、何もできなかった。民が殺されて・・・ なのに彼らは笑っていたわ。悔しい・・・」
激しい雨の中、ゼフィは恐怖心が徐々に怒りへと変わるのを感じた。
無力な自分に、何の力もない自分に、悔しさに、声が震えた。

「私が迷っている間に、多くの人が死んだ。これはシュエンザイトの宣戦布告よ。もうこれ以上、迷うわけにはいかない」
「あなた様がそういうお考えならば、私もそれに従います」
淡々としたルウの言葉に、ゼフィは力強く頷いた。
「ありがとう、ルウ・・・」

―この雨が、峡谷で流れた血を洗い流してくれるといい。
ゼフィは死んでいった民を想い、祈りを捧げた。

 

1149年7月、シュエンザイト率いる北部守護軍、略称『北部軍』に対抗し、アレックスを始めとする南部の貴族が属する南部連合の軍隊が結成された。その軍隊の名を『南部護国軍』と正式に命名し、略称を『南部軍』とした。

そして、翌1150年1月。
次第にその勢力を拡大していく南部軍に脅威を感じた北部軍は、とうとう南部への武力侵攻を開始した。

こうしてランツハイム内戦の幕は上がった。