しばらくは平穏な日々が過ぎた。
黒角トレワの消えたトレワ砂漠は平和だった。
青月の村では明日祭りを催す予定になっていた。元々この時期、青月の先祖を祀る行事があり、それと兼ねて黒角トレワとの戦いの勝利祝いを計画していた。

青月トレワの先祖を祀る祭りは『青月祭』と呼ばれ、祭りの目玉は代々族長にのみ受け継がれる部族の聖物をお披露目することであった。
それは『剣』『鏡』『宝珠』から成り、遥か昔トレワの始祖がこの聖物を持って魔王を退けたという伝説があるトレワの誇りを象徴するものだった。
普段は宝物庫の奥深くに封印されているが、その祭りの日にのみ外に出され、祭りの期間中村の中央広場に飾られる。それにより、聖物に月の精気が蓄えられるのだ。
青月トレワの部族では、『青い月は幸運を呼び寄せる』という伝説があり、この部族の名前に当てたり神聖視したりしていた。

青い月。
だが、青い月を実際に見たものはいない。

祭りが近づくと、感情表現の乏しいトレワ族も皆どこか浮き足立っていた。だから油断していたのだろう。
陽が沈むにつれ、赤紫に染まる空に浮かぶ満月が徐々に光りだした。

夜。
風のない砂丘は、深海の底に沈んだように不気味なほど静かだった。いざこざも起こらなくなった上、祭りを明日に控え、気の抜けた見張りも睡魔と格闘していた。
青い砂丘の向こう、あの赤い帯が現れても、村ではしばらく誰も気づかなかった。

 

―どこからか悲鳴が聞こえる。違う、怒声だ。

突然の叫びに、アルゴは飛び起きてすぐにテントから外に出た。
見ると村の外郭のほうに位置していたいくつかのテントが燃えていた。まだ本格的に火が回る前のようで、テントの中からは脱出した住人たちが転がり出てきた。
アルゴが火のほうへ走り出すと、背後から鐘が鳴り出した。
それは見張りが敵の襲来を告げる鐘の音だった。

驚いて振り返ったアルゴは、村を囲む砂丘のほうを見て息を呑んだ。
砂丘のうねりに沿って続く松明の明かりが、どこまでも続いていた。
青月トレワの村は完全に包囲されていたのだ。

それから何を叫んだのかはアルゴ自身よく覚えていなかった。
『戦闘態勢を取れ』だったのか。それとも『皆逃げろ』だったのか。

確かなのは、その直後に無数の松明の群れが揺らいだかと思った瞬間、砂丘から夥しい数の火の矢が飛んできたということだ。
赤い光の弧を描きながら飛んでくる無数の矢がテントに突き刺さり、一瞬にして青月の村は火の海と化した。
火の回り方は尋常ではなかった。そのときアルゴが少しでも冷静だったら、敵に火と風の錬換術師が混じっていたことが分かったはずだった。
だがこの若い族長は動揺し、冷静な判断力を失っていた。
テントが燃え上がり崩れ落ちていく中、アルゴは黒煙を掻き分けて現れる者たちに何もしてやれなかった。

突然の奇襲からまともな応戦ができない状態で、青月トレワは強力な武具で武装した黒角トレワと錬換術師、そして王国の正規軍による連合軍が突き進んでくる光景を見た。

アルゴは何とか態勢を整えようとするが、突然横から激しい爆発が起こる。煙で視界が悪くなり、動きが鈍っていたところを敵は巨大な斧を手に突進してきた。

「長! 危ない!!」
誰かがアルゴを突き飛ばし、すぐに絶命する呻きが続いた。
地面を転がったアルゴが顔を上げると、まず巨大な斧が目に入ってきた。トレワ砂漠では手に入らない強力な斧のようだった。

斧から腕へ、そして目線をさらに上へ向けると鮮やかに黒光りする巨大な角が目に入ってきた。

「リガド」
黒角トレワの族長リガドがその手に持つ巨大な斧をアルゴに向けていた。

「見たか、青月トレワの族長アルゴ。これは、お前が招いたことだ」
村のあちこちで悲鳴やうめき声が上がり、炎上したテントや倉庫が崩れ落ちる音がする。村の中央にある祭りのために飾りに用いた乾草が、勢いよく燃えた。砂漠の乾ききった空気と風が、炎をさらに上空へと導いていた。
「リガド、青月を滅ぼすつもりか」
後方で悲鳴が上がる。今すぐにでも加勢したかったが、アルゴはリガドから目が逸らせなかった。

「これは息子の死の代償だ・・・ 黒角を滅族しなかったことを悔やむんだな。お前の判断により青月は滅ぶんだ」
「リガド、お願いだ。私の命で償おう。だから、もうやめてくれ」
ぶざまに見えようがかまわない。誰にも屈することがないと言われるトレワだったが、アルゴは跪いて哀願した。

「は、ははは! 青月の族長、アルゴ!! トレワの誇りを全て捨てて跪くか! いいザマだな」
アルゴはうなだれてリガドの救済の言葉を待った。視界には自分の手と砂があった。そしてこの同じ光景を、黒角トレワの者たちも見たはずだと思った。
アルゴが下す処刑の指示を待ちながら、彼らもじっと砂を見つめたのだろうか。

「そうだな。青月トレワの族長という立場に免じて・・・ お前だけは生かしてやろう、アルゴ。ほかの者は、皆殺しだ」
驚愕した面持ちで顔を上げると、自分に向かって斧が振り下ろされようとしていた。
アルゴの意識はそこで途切れた。

「死ぬまで後悔するが良い・・・」
昏倒したアルゴを見下ろし、リガドは低く呟いた。

 

ドレゴと青月の者何人かは、明日の祭りに必要なものを手に入れるためトレワ砂漠から出て都市へと繰り出していた。用事を済ませると思ったより遅くなり、砂漠に着いた時には夜中になっていた。
村に近づくにつれ、遠くからもその異変ははっきりと見えた。
村が、闇に覆われていた。

村まで辿り着くと、闇の正体が分かった。
焼け跡から立ち上る黒煙と、そして遠くからは見えなかったが、空から雪が降っていた。焼け跡の煤や灰が舞い上がったものかと思いきや、それは黒い雪だった。
不気味な雪と、灰がはらはらと落ちてくる。
煙に遮られて月光も届かず、闇はより一層濃くなっていった。

「これは一体・・・ 何があったんだ」
未だ燻るテントや倉庫を過ぎて村の中央まで来るとドレゴは愕然とした。
それは想像を絶する光景だった。
うずたかく積まれた同胞の遺体。
無残にも焼け焦げた遺体は、最初何か判別すらつきにくかったが、何とか原型を取り留めている角で、トレワ族だと分かったのだ。

「信じられん! どうしてこんなことに」
仲間の遺体の前で怒りに震えるドレゴは、微かにうめき声を聞いた。
周辺を見回すと、広場の片隅にアルゴが倒れていた。
「アルゴ!!」
急いでかけつけると、アルゴが倒れて頭を抱えていた。彼の手をどけてみると確かに頭部がひどく腫れている。だがその他の怪我はないらしく、ドレゴは安堵の溜息をついた。
何度か起き上がろうとして力が入らないのか諦めて横になったアルゴはぽつぽつと語りだした。
「黒角の奴らだ・・・ 人間たちもいた。王国軍と手を組んだのかもしれない。我々が持つ武器よりも、遥かに性能の良いものばかりで全く相手にならなかった。皆・・・ やられて・・・」
話しているうちにアルゴの語尾が徐々に弱くなる。

「私の、せいだ。私が・・・ 黒角を生かしておいたばかり・・・ に・・・」

アルゴは顔を背けて震えた。ドレゴからは、彼が泣いているのかまでは見えなかった。

―ああ、全てはお前のせいだ。
―お前のせいで、青月トレワの村は滅んだ。

険しい表情で、アルゴを見つめる。だが、罵りの言葉を口に出すことはしなかった。
村を出ていて助かった自分たちは、喜ぶべきなのだろうか。
失った物はあまりにも大きい。

アルゴの世話を別の者に任せてドレゴは別の生存者がいないか捜した。
そして、中央広場から村の奥に進んだ場所までくると、目の前の光景にギョッとする。そこは普段、村の者も出入りが禁じられた場所であった。
青月トレワの聖物が納められた宝物庫。
周辺が全て燃えて残骸と化している中、その建物だけはあまり焼けていなかった。生き物の気配は感じられなかったが、油断はできない。ドレゴは武器を構え、そろそろと近づいて中を覗く。

「やはり・・・」
敵が黒角だと聞いた時から半ば予想していたことではあった。
宝物庫の中は空っぽだった。

 

激しい頭痛が少しずつ薄らいできたため、アルゴは何とか身を起こして座ることができた。そして改めて周囲を見た。
部族の者たちの遺体の山、テントの残骸と空から降る闇色の雪。

―これが、争いを呼ぶという災禍種か・・・

呆然と空を見上げると、上空に月があった。
月光を遮っていた濃い黒煙は風で流され、今は薄く煙って見えた。
闇色の雪と、煙がいっしょくたになって何か作用したのだろうか。

それは、青い月だった。

「う・・・ うぉおおおおおお!」

青い月を見上げながら、アルゴは叫んだ。
怒り、悲しみ、そして痛恨。
聞く者が遣り切れなさに身を震わせるほどの絶望だった。

 

数時間後、砂漠に朝日が差すとさらに惨状は鮮明に見えてきた。
生き残った少数の者は、あれから黙々と同胞の遺体を埋める作業に没頭した。こんな最期は悲惨すぎると、その場の誰もが思っていた。

遺体を全て埋葬した後、砂丘の向こうから差し込む朝陽に照らされている少し盛り上がった地面を、皆言葉なく見つめた。

しばらく佇んでから、アルゴは背を向けて歩き出した。
同胞の墓から、自分の罪から逃げるように。
振り返ることはなかった。
そんなアルゴの後ろ姿を見てもドレゴは何も言わなかった。

―あいつが立ち直るにはかなり時間を要するだろう。
だからといって、青月の死を忘れるなよ、アルゴ。
お前は、いつか部族の死に対して償うべきだ・・・

いつかはアルゴに再会するという確信めいた予感がして、ドレゴも残った者たちに声をかけ、旅立つことにした。

 

―トレワ砂漠、我らの故郷。
いつか、必ず青月の住み処を再興してみせる。
待っていろ、リガド・・・

それぞれの誓いを胸に秘めて、青月の者たちはトレワ砂漠を後にした。

その後、ランツハイム内戦が勃発し、王国は戦場と化す。
女王を暗殺し、王位を簒奪したシュエンザイトが率いる軍隊には、黒角トレワの強力な精鋭部隊の存在があったという。